ゴールデンウークの善福寺池 2006年5月4日、14:58:06

西荻の偉大な恩人内田秀五郎翁の銅像です。善福寺公園の中に、一体の銅像があります。モデルとなった人物は、内田秀五郎という、明治の終わりから大正時代にかけて、井荻村の村長に就任していた人です。
 井荻村は現在の西荻窪駅北口一帯。当時は善福寺川一帯の水田を除くと、麦や陸稲(おかぼ)や大根を作る畑があるくらいで、川は複雑に湾曲し、武蔵野台地も入り組んでいたために、狭い農道はあちこちで急な坂道となっていたのです。

 内田村長は、井荻村農家の生活を豊かにするために、ささまざまな政策を打ち出しました。養蚕業(絹糸)の振興、東京市民相手の野菜の出荷、「たくあん漬」の奨励などがその代表的なものです。商品作物を手がけることによって、農家が現金収入を得られるようにしたわけなのです。
 さらに、明治42年には、井荻信用購買組合を設立して、農業資金や資材の安定化を計りました。後の東邦信用金庫の前身です。

 やがて大正10年になる頃、内田村長は中央線の荻窪駅と吉祥寺駅の中間に、新駅誘致の運動に乗り出します。現在の西荻窪駅です。
 地主の協力を得て、当時の鉄道省に駅敷地430坪を寄付し、翌年に西荻窪駅が完成すると、今度は内田村長は駅の北口と青梅街道を結ぶ道路を開きました。
 それまでも幅9尺のあぜ道があるにはあったのですが、これをまっすぐな3間(5.4メートル)道路にしようとしたところ、地主の中には「人が幸せになるために、自分だけが土地を提供して損をするのは嫌だ」などど反対する人もいたので、計画は難航したようです。現在となっては狭いながらも、青梅街道ー西荻窪駅ー五日市街道とまっすぐなバス道路が開通しているのは、その時の賜物です。

 この時の経験から、「たしかに一部の地主だけに負担をしわ寄せするだけでは、全村の発展にはつながらない」と考えた内田村長は、村内全体の耕地整理をおこなって道路整備をするという計画に着手するようになります。
 折からの関東大震災により、荻窪から西荻窪にかけての一帯には、あらたな住宅がどんどんできるようになりました。内田村長は「農業地帯の井荻村も、近い将来、都市化の波は避けられない」と、最後まで反対した西荻北一帯の地主の説得にも成功し、紆余曲折を経ながらも、台地を削り、湿田を埋め立てて、ようやく井荻村一帯は平坦な土地になり、整然とした区画に沿って広い道路が走るようになりました。おかげで、上荻地区には高級住宅街が広がることになります。

 昭和13年には西荻窪駅南口改札も開設され、それまで雑木林だった南口一帯には、現状からは想像できないような商店街の繁栄も見られるようになったのです。

 善福寺公園の中に、ひっそりと佇むかの銅像は、私欲を捨てて郷土のために協力した故老達を代表して、先見の明と指導力に富んだ内田秀五郎翁の偉業をたたえるために、有志達によって作られたものなのです。中央線の荻窪駅から西荻窪駅あたりまでの南北一帯に整然とした街並みが広がっている。 この街並みは昭和初期に杉並区誕生前の井荻村の若い村長内田秀五郎の主導で実施された区画整理事業により整備されたものである。
彼の功績を讃える銅像は善福寺公園上池のほとり建てられており、良く知られているが、改めてこの区画整理事業の意味を全国的な都市計画・まちづくりの歴史のなかで考えてみたい。 区画整理は当時の井荻村全村888ヘクタールに及ぶ区域で施行されたが、これは丁度杉並区の四分の一に相当する。
杉並区は昭和八年に四町が合併して成立したが、他の三町では区画整理はごく部分的にしか実施されていないので、現在の杉並区のほぼ四分の三は未整備市街地のままということになっていて、防災まちづくりに苦労することになってしまった。 関東大震災直前の大正十一年から中央線西荻窪駅開設に備えて駅西北部で四四へクタールの耕地整理事業による宅地開発を行なっていたので大震災による郊外発展の受け皿とするためにこれを先行モデルとして全村区画整理を断行し昭和十年に事業を完了している。
東京の市街地発展が中央線沿いに西へ伸び始めたときに.その流れをいち早くキャッチしたのが井荻村の内田秀五郎で、中央線に西荻窪駅開設に合わせるべく大正十一年に宅地開発目的の耕地整理事業に着手した。この耕地整理地区は約四十ヘクタールで西荻窪駅から東京女子大にかかるバス道路周辺の区域であるが、その後の都市計画区画整理事業(手法としては耕地整理法を援用)の区域と比べると道路幅員が十分でなく街区も隅切りが場合も多いなど耕地整理事業の限界も見て取れる。 なおこの区域の東端井荻小学校の傍に「耕整橋」があるが、これは耕地整理事業を記念しての命名と思われる。 
井荻地区の憩いの中心となっているのが上下二つの池からなる善福寺公園であるが、ここは風致地区と云われた場所である。
 風致地区とは都市内外で優れた自然景観等を保全することを目的とした都市計画法に基く地区指定制度で、大正十五年の明治神宮風致地区が最初で次いで、昭和五年には洗足、善福寺、石神井.江戸川の四箇所が指定されている。さらに昭和八年には和田掘、多摩川、大泉、野方の四地区が指定されている。この時期に指定された個所はいずれも武蔵野台地縁辺の涌水や河川等の自然景観の優れた場所である。 井荻村の全村土地区画整理を推進していた内田秀五郎はこの風致地区指定も積極的に進めるとともに、風致地区を単に自然景観を保全するだけではなく、レクレーションやスポーツを行う場所としても活用するために設立された風致協会の活動にも関わっている。彼が会長を勤めた地元住民主体の善福寺風致協会は現在も善福寺池の貸しボート経営などで活動している。 風致地区制度は景観保全が主目的で景観を損なうような樹木伐採や建築行為などを規制するもので、それだけでは不十分であった。 
   土地私有のままでは、やがて市街化の波に飲み込まれてしまう恐れもあったので、内田秀五郎は地主を説得して善福寺池周辺の土地を東京都に寄付して都立公園を開設させた。 風致地区制度は現在も地域地区制度の一種として存続しているが、用途地域制度と不整合な面もあって、うまく機能しているとは云い難い。和田掘風致地区などは、その後に都立公園とすべく買収が進められたが未だに完了していない。 ここでも内田秀五郎の先見性が発揮されたのである。 (参考図書 岩波新書 越沢明著 東京の都市計画) 
ところで西荻は、昭和十年頃から西荻窪駅を中心に宅地化が始まりました。井荻村村長内田秀五郎氏は稀に見る先見の明と、卓越した指導力のある名村長でした。全国に先駆け、日本一の大規模な区画整理を行いました。そのおかげで、現在、まるで新開地のような、整然とした道路網が出来あがっているわけです。内田村長は明治40年、たしか全国最年少の29歳で村長になったと聞いています。
今も西荻の水は美味しいといわれている(旧井荻村のみ)善福寺の汲上井戸も、井荻町営水道だったのです(現在は東京都水道局に吸収)。村長は青梅街道に立派な建物がある井荻信用購買組合東邦信用金庫から現平成信用金庫と変遷)を作りました。また井荻村の農民のため、井草八幡(青梅街道沿いのバス停「青物市場」)と新宿(JRが東中野を出ると大久保の手前左側に見える)に青物市場(現「(株)新宿青果」)を作りました。
井荻村は現在の杉並区荻窪・井草・善福寺・清水・今川・桃井といった一帯である。井荻村は当時の東京では珍しく先見の明とそれを活かす行動力のあった村で、震災を契機とした東京西郊の宅地化に対処すべく、村長の内田秀五郎が先頭に立って地主を説得し、積極的に区画整理を行ってスプロール現象(無秩序な宅地開発)を防いだ。また内田村長や村内の地主有志は銀行を設けたり、電気や電話の開通に尽力したり、中央線の西荻窪駅や西武新宿線(当時は西武村山線)の上井草・井荻・下井草各駅の開設に私財を擲って働きかけたりと、住環境整備にことのほか力を注いだのだった。
街並みがゴチャゴチャしている印象の強い中央線沿線や西武新宿線沿線でも、旧井荻村一帯では落ち着きのある整然とした街区が広がっているのだが、これはかつての内田村長をはじめとする井荻村有志の努力の賜物なのである。狭い路地に沿って継ぎ接ぎ状に商店街や木造住宅がビッシリ建ち並んでしまった高円寺や野方などと比べれば、その差は歴然としている。
善福寺池畔にある浄水所取水井近くにはこの内田氏の立像が立てられ、その功績が讃えられている。銅像というものはその人に関係のない者が見るとバカバカしい物に見えてしまうが、氏が残した功績を考えればこの人の銅像は立てられて然るべきだろう。

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